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Donald Harvey
ドナルド・ハーヴェイ
https://blogs.yahoo.co.jp/show_p_dion_ne_jp/14522708.html
続き
1980年代初期
ハーヴェイの殺人は変化しだす
彼は同性愛の恋人.カール・ホエーラーと同居を始めるけれど
騙されている気がしてヒ素を盛り始める
体調不良がちになったホエーラーが同居を解消できない状況になる
この時
ホエーラーは39才から40才くらいだったと思はれる
ある時
女性の隣人と言ひ争ひとなりハーヴェイは彼女の飲み物に肝炎の血清を入れた
彼女は瀕死となったけれど
病院で治療を受けて命を救はれている
反対側の隣人の女性.ヘレン・メッガー63才もハーヴェイと喧嘩をして
上の女性と違ひヒ素を飲まされ
上の女性と違ひ気管切開の大量出血で死亡した
1983年4月
ハウラーの両親と喧嘩したことをきっかけにハーヴェイは彼らの食べ物にヒ素を入れ始めた
これにより5月1日
父親のヘンリー・ハウラー82才はプロヴィデンス病院に運ばれ
腎不全に脳卒中が合併して死亡する
ハーヴェイはその後
ハウラーの母親.マーガレットにもヒ素を入れ続けたけれど
結局
彼女を殺すことはできなかった
~
この期間
ハーヴェイの近くでハワード・フェッターとゆー男性がメタ―ノールで心臓発作を起こして死亡しているけれど
殺害の証拠はなく
事故として処理されている
~
1984年になるとハウラーはハーヴェイに疑惑を持ち始め
別れ話を持ち出すのだけれど
ハーヴェイは怒って取り合はないばかりか
毒物をハウラーに与えよーと
この後2年間狙ひ続けた
また
報復の一環としてハウラーのガールフレンドをも殺そーとして毒を盛った
結局
このガールフレンドもハウラーも死ぬことなく
ハーヴェイの知らない土地に行ってしまふ
なお
ハウラーはこののち病院通ひはあったものの生き延びて
2015年8月4日に74才で逝く
1984年9月19日
ヒラム・プロフィットがヘパリンの過剰投与で殺害される
11月9日
ジェームズ・ペルーゾ65才がヒ素の過剰投与で殺害される
1985年3月23日
エドワード・ウィルソンが胃腸薬にヒ素を混ぜられ過剰摂取で死亡する
1985年
警備員の一人がハーヴェイを疑ひだす
勤務外の深夜に病棟を徘徊し
そのたび死者が出る状況を客観的に見ることができたのはその警備員だけだったのだらう
7月18日
その警備員はハーヴェイの通勤バックを捜索した
すると
外科バサミと手袋
コカインスプーン
数々の医学テキスト
2冊のオカルト本の他にシリアルキラーのシャルル・ソブラジhttps://blogs.yahoo.co.jp/show_p_dion_ne_jp/7414171.html
そして
38口径の拳銃が発見された
これにより彼は50ドルの罰金刑となり
自主退職させられる
警察と病院はこの間の調査を恣意的に行はず
過去の事例についての問い合はせもしなかった
怠慢といふなら
むしろこれらの警察と病院に投げかけるべき言葉だらう
なぜなら
7か月後の1986年2月
ハーヴェイは地元の別な病院に就職できてしまったのだから
ハーヴェイはシンシナティのドレーク記念病院においてパートタイムの看護助手としての仕事を得る
新しい職場のオーナーはハーヴェイの過去の経歴を調べるでもなく
ハーヴェイの都合のいい売り宣だけを鵜呑みにした
そのせいだけでもないのだろーけれど
ハーヴェイはすぐにフルタイムに登用される
その後の13か月
ハーヴェイは毒殺
窒息などで24人の患者を殺しまくる
1986年4月8日
ナサニ・J.ワトソンは枕を使用した窒息死で殺害された
1986年4月12日
レオン・ネルソン64才は枕を使用した窒息死で殺害された
1986年4月19日
ベルギリウス・ウェドル81才は猫いらずで毒殺された
1986年5月2日
ドリス・ネリー65才は青酸カリで毒殺された
1986年6月20日
エドワード・シャリフェイスはヒ素を致死量与えられ毒殺された
1986年6月29日
ロバート・クロケット80才は青酸カリで毒殺された
1986年7月7日
ドナルド・バーニー61才も青酸カリで毒殺された
1986年7月25日
ジェームズ・T.ウッズ65才も青酸カリで毒殺された
1986年8月16日
エルンスト・C.フレイ85才はヒ素を致死量与えられ毒殺された
1986年8月29日
ミルトン・カンター85才は青酸カリで毒殺された
1986年9月17日
ロジャー・エバンス74才も青酸カリで毒殺された
1986年9月20日
クレイボーン・ケンドリックも青酸カリで毒殺された
1986年10月29日
アルバート・バウヒマンも青酸カリで毒殺された
1986年10月30日
ウィリアム・コリンズ85才も青酸カリで毒殺された
1986年11月4日
ヘンリー・コーディも青酸カリで毒殺された
1986年11月22日
モーズ・トンプソン65才も青酸カリで毒殺された
1986年12月9日
オーデス・デイ75才も青酸カリで毒殺された
1986年12月10日
クリオ・フィッシュ67才も青酸カリで毒殺された
1987年1月1日
レオ・パーカー47才も青酸カリで毒殺された
1987年2月5日
マーガレット・ククロ80才も青酸カリで毒殺された
1987年3月16日
ステラ・レモン76才も青酸カリで毒殺された
1987年3月6日
ジョセフ・M・パイク68才はデタコールを致死量与えられて毒殺された
1987年3月7日
ヒルダ・ライツ82才もデタコールを致死量与えられて毒殺された
同日1987年3月7日
数ヶ月間昏睡状態だった患者.ジョン・W・パウエル44才が回復の兆候を見せ始めた途端
青酸カリで毒殺された
検視官助手がアーモンドの臭ひを嗅ぎつけ
青酸カリの痕跡を発見したと通報する
動機については
初めは家族に疑ひが向いたけれど
当局は証拠を見つけるに至らず
すぐに病院職員に捜査が移行した
この捜査は短かったらしい
死亡した患者のすぐそばにいつもりたハーヴェイは
すでに病院では『死の天使』と呼ばれており
当局はすぐに彼一人に捜査を集中したからだ
ハーヴェイは殺害にあたり
克明な日記をつけていた
1975年台の記憶不明が理由だらう
この日記には
・口と鼻の上にビニール袋や湿ったタオルを圧着した
・デザートにねこいらずを振舞った
・オレンジジュースにヒ素や青酸を混ぜた
・青酸を静脈注射した
・患者のお尻に青酸を注射した
など
詳細に記録していた
ハーヴェイは自らの殺害のために医療専門誌をよく読み
知識をつけていったのだ
また
長年にわたり
少しずつ病院から精算を盗んでいた
1987年4月
捜査官が捜索令状を手にハーヴェイのアパートに踏み込んだ時
盗んだ青酸カリのストックは30ポンドになっていたといふ
警察は家宅捜索の結果
青酸やヒ素を入れた持ち運び用の小瓶のほか
オカルトや毒物や殺人の本を多数押収した
この時点で
ハーヴェイはパウエル殺害の素因で逮捕され
保釈金200,000ドルで拘置された
この拘留の間に警察は
シンシナティ.ドレーク記念病院で過去に発生した不自然死を調べ始めた
そして捜査はやがて
彼が以前に勤めた病院へと拡大していった
ことここに至り
彼が死刑を免れる方法は唯一
取引のうえ
全面的な解明のための捜査への協力だった
1987年8月11日
ハーヴェイは捜査官に対し
過去17年間で33人分の殺害を認めた
ただ
この33とゆー数字に対して
捜査官は懐疑的だった
この理由は2つあり
一つは罪を一つでも減らしておきたいとゆー罪人が持つ一般的な心理であり
もう一つは
殺害を記憶しえるだけの精神状態にハーヴェイがいたかどーかが怪しかったからだ
捜査により
過去17年間にハーヴェイの周囲で発生した不審死は70人に増大した
当局はハーヴェイの精神鑑定を行ふことになる
これにより
起訴側
弁護側のどちらからも多数の専門家が投入され
ハーヴェイは精神の解剖を行はれる
結果
「衝動的な殺人者ではあるが、殺人の時は正気で、有能な殺人者である」
とゆー結論に達した
1987年8月18日
ドナルド・ハーヴェイは24件の殺人
4件の殺人未遂で法廷に立つ
4日後
25回目の有罪答弁ののち
彼は4連続終身刑プラス懲役20年の宣告を受ける
この4日とゆーのはたぶん
取引の結果
裁判を争はないとゆー両者の合意があったからだらう
簡単に言へば
出来レースとゆーヤツだ
現代なら
裁判も開かれないだらう
また1987年9月7日
ハーヴェイはケンタッキーのメリーモント病院に雇はれていた時の12件の殺人も認め
11月に宣告を受け
1988年2月
捜査官が証拠不十分にて追跡を断念せざるを得ない殺人以外のすべてを認めて裁判は終了となった
1991年
コロンバス・ディスパッチのレポーターがハーヴェイに接見し
インタヴューをした
なぜあなたは殺したか?:
「ワ(俺)は18年にわたり人々ばコントロールし、ワ自身の運命もコントロールしたんずや。彼ら彼女らが生きたとしても死んだとしても、ワのコントロール下にあったんだ。ワにはその力があったからだ。」
あなたにその権利があったか?
「最初の15件で捕まらなかったことで、ワはそれが正しいと思ったんずや。ワはワ自身ば検察官と陪審員に任命したんずや。いやそれ以上だ。ワは神だんずやんだ。」
今日においてまで
犯罪心理学者が彼と面談し
彼の行動の軌跡を追っているけれど
何が彼の殺人衝動を実践させたのか答えが得られていない
周りの人間の苦しみを見ることに耐えられなかったのか
或いは
単に犠牲者が死ぬのを見て楽しんだのか…
ともかく
ドナルド・ハーヴェイの最初の保釈審問は2047年となる
この時
ハーヴェイは95才になっているはずだった
ただし彼はそれを待つことなく
2017年3月30日
同房の囚人に殴られ
脳挫傷で死亡する
64才だった
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Donald Harvey
ドナルド・ハーヴェイ
https://blogs.yahoo.co.jp/show_p_dion_ne_jp/14522708.html
続き
1980年代初期
ハーヴェイの殺人は変化しだす
彼は同性愛の恋人.カール・ホエーラーと同居を始めるけれど
騙されている気がしてヒ素を盛り始める
体調不良がちになったホエーラーが同居を解消できない状況になる
この時
ホエーラーは39才から40才くらいだったと思はれる
ある時
女性の隣人と言ひ争ひとなりハーヴェイは彼女の飲み物に肝炎の血清を入れた
彼女は瀕死となったけれど
病院で治療を受けて命を救はれている
反対側の隣人の女性.ヘレン・メッガー63才もハーヴェイと喧嘩をして
上の女性と違ひヒ素を飲まされ
上の女性と違ひ気管切開の大量出血で死亡した
1983年4月
ハウラーの両親と喧嘩したことをきっかけにハーヴェイは彼らの食べ物にヒ素を入れ始めた
これにより5月1日
父親のヘンリー・ハウラー82才はプロヴィデンス病院に運ばれ
腎不全に脳卒中が合併して死亡する
ハーヴェイはその後
ハウラーの母親.マーガレットにもヒ素を入れ続けたけれど
結局
彼女を殺すことはできなかった
~
この期間
ハーヴェイの近くでハワード・フェッターとゆー男性がメタ―ノールで心臓発作を起こして死亡しているけれど
殺害の証拠はなく
事故として処理されている
~
1984年になるとハウラーはハーヴェイに疑惑を持ち始め
別れ話を持ち出すのだけれど
ハーヴェイは怒って取り合はないばかりか
毒物をハウラーに与えよーと
この後2年間狙ひ続けた
また
報復の一環としてハウラーのガールフレンドをも殺そーとして毒を盛った
結局
このガールフレンドもハウラーも死ぬことなく
ハーヴェイの知らない土地に行ってしまふ
なお
ハウラーはこののち病院通ひはあったものの生き延びて
2015年8月4日に74才で逝く
1984年9月19日
ヒラム・プロフィットがヘパリンの過剰投与で殺害される
11月9日
ジェームズ・ペルーゾ65才がヒ素の過剰投与で殺害される
1985年3月23日
エドワード・ウィルソンが胃腸薬にヒ素を混ぜられ過剰摂取で死亡する
1985年
警備員の一人がハーヴェイを疑ひだす
勤務外の深夜に病棟を徘徊し
そのたび死者が出る状況を客観的に見ることができたのはその警備員だけだったのだらう
7月18日
その警備員はハーヴェイの通勤バックを捜索した
すると
外科バサミと手袋
コカインスプーン
数々の医学テキスト
2冊のオカルト本の他にシリアルキラーのシャルル・ソブラジhttps://blogs.yahoo.co.jp/show_p_dion_ne_jp/7414171.html
そして
38口径の拳銃が発見された
これにより彼は50ドルの罰金刑となり
自主退職させられる
警察と病院はこの間の調査を恣意的に行はず
過去の事例についての問い合はせもしなかった
怠慢といふなら
むしろこれらの警察と病院に投げかけるべき言葉だらう
なぜなら
7か月後の1986年2月
ハーヴェイは地元の別な病院に就職できてしまったのだから
ハーヴェイはシンシナティのドレーク記念病院においてパートタイムの看護助手としての仕事を得る
新しい職場のオーナーはハーヴェイの過去の経歴を調べるでもなく
ハーヴェイの都合のいい売り宣だけを鵜呑みにした
そのせいだけでもないのだろーけれど
ハーヴェイはすぐにフルタイムに登用される
その後の13か月
ハーヴェイは毒殺
窒息などで24人の患者を殺しまくる
1986年4月8日
ナサニ・J.ワトソンは枕を使用した窒息死で殺害された
1986年4月12日
レオン・ネルソン64才は枕を使用した窒息死で殺害された
1986年4月19日
ベルギリウス・ウェドル81才は猫いらずで毒殺された
1986年5月2日
ドリス・ネリー65才は青酸カリで毒殺された
1986年6月20日
エドワード・シャリフェイスはヒ素を致死量与えられ毒殺された
1986年6月29日
ロバート・クロケット80才は青酸カリで毒殺された
1986年7月7日
ドナルド・バーニー61才も青酸カリで毒殺された
1986年7月25日
ジェームズ・T.ウッズ65才も青酸カリで毒殺された
1986年8月16日
エルンスト・C.フレイ85才はヒ素を致死量与えられ毒殺された
1986年8月29日
ミルトン・カンター85才は青酸カリで毒殺された
1986年9月17日
ロジャー・エバンス74才も青酸カリで毒殺された
1986年9月20日
クレイボーン・ケンドリックも青酸カリで毒殺された
1986年10月29日
アルバート・バウヒマンも青酸カリで毒殺された
1986年10月30日
ウィリアム・コリンズ85才も青酸カリで毒殺された
1986年11月4日
ヘンリー・コーディも青酸カリで毒殺された
1986年11月22日
モーズ・トンプソン65才も青酸カリで毒殺された
1986年12月9日
オーデス・デイ75才も青酸カリで毒殺された
1986年12月10日
クリオ・フィッシュ67才も青酸カリで毒殺された
1987年1月1日
レオ・パーカー47才も青酸カリで毒殺された
1987年2月5日
マーガレット・ククロ80才も青酸カリで毒殺された
1987年3月16日
ステラ・レモン76才も青酸カリで毒殺された
1987年3月6日
ジョセフ・M・パイク68才はデタコールを致死量与えられて毒殺された
1987年3月7日
ヒルダ・ライツ82才もデタコールを致死量与えられて毒殺された
同日1987年3月7日
数ヶ月間昏睡状態だった患者.ジョン・W・パウエル44才が回復の兆候を見せ始めた途端
青酸カリで毒殺された
検視官助手がアーモンドの臭ひを嗅ぎつけ
青酸カリの痕跡を発見したと通報する
動機については
初めは家族に疑ひが向いたけれど
当局は証拠を見つけるに至らず
すぐに病院職員に捜査が移行した
この捜査は短かったらしい
死亡した患者のすぐそばにいつもりたハーヴェイは
すでに病院では『死の天使』と呼ばれており
当局はすぐに彼一人に捜査を集中したからだ
ハーヴェイは殺害にあたり
克明な日記をつけていた
1975年台の記憶不明が理由だらう
この日記には
・口と鼻の上にビニール袋や湿ったタオルを圧着した
・デザートにねこいらずを振舞った
・オレンジジュースにヒ素や青酸を混ぜた
・青酸を静脈注射した
・患者のお尻に青酸を注射した
など
詳細に記録していた
ハーヴェイは自らの殺害のために医療専門誌をよく読み
知識をつけていったのだ
また
長年にわたり
少しずつ病院から精算を盗んでいた
1987年4月
捜査官が捜索令状を手にハーヴェイのアパートに踏み込んだ時
盗んだ青酸カリのストックは30ポンドになっていたといふ
警察は家宅捜索の結果
青酸やヒ素を入れた持ち運び用の小瓶のほか
オカルトや毒物や殺人の本を多数押収した
この時点で
ハーヴェイはパウエル殺害の素因で逮捕され
保釈金200,000ドルで拘置された
この拘留の間に警察は
シンシナティ.ドレーク記念病院で過去に発生した不自然死を調べ始めた
そして捜査はやがて
彼が以前に勤めた病院へと拡大していった
ことここに至り
彼が死刑を免れる方法は唯一
取引のうえ
全面的な解明のための捜査への協力だった
1987年8月11日
ハーヴェイは捜査官に対し
過去17年間で33人分の殺害を認めた
ただ
この33とゆー数字に対して
捜査官は懐疑的だった
この理由は2つあり
一つは罪を一つでも減らしておきたいとゆー罪人が持つ一般的な心理であり
もう一つは
殺害を記憶しえるだけの精神状態にハーヴェイがいたかどーかが怪しかったからだ
捜査により
過去17年間にハーヴェイの周囲で発生した不審死は70人に増大した
当局はハーヴェイの精神鑑定を行ふことになる
これにより
起訴側
弁護側のどちらからも多数の専門家が投入され
ハーヴェイは精神の解剖を行はれる
結果
「衝動的な殺人者ではあるが、殺人の時は正気で、有能な殺人者である」
とゆー結論に達した
1987年8月18日
ドナルド・ハーヴェイは24件の殺人
4件の殺人未遂で法廷に立つ
4日後
25回目の有罪答弁ののち
彼は4連続終身刑プラス懲役20年の宣告を受ける
この4日とゆーのはたぶん
取引の結果
裁判を争はないとゆー両者の合意があったからだらう
簡単に言へば
出来レースとゆーヤツだ
現代なら
裁判も開かれないだらう
また1987年9月7日
ハーヴェイはケンタッキーのメリーモント病院に雇はれていた時の12件の殺人も認め
11月に宣告を受け
1988年2月
捜査官が証拠不十分にて追跡を断念せざるを得ない殺人以外のすべてを認めて裁判は終了となった
1991年
コロンバス・ディスパッチのレポーターがハーヴェイに接見し
インタヴューをした
なぜあなたは殺したか?:
「ワ(俺)は18年にわたり人々ばコントロールし、ワ自身の運命もコントロールしたんずや。彼ら彼女らが生きたとしても死んだとしても、ワのコントロール下にあったんだ。ワにはその力があったからだ。」
あなたにその権利があったか?
「最初の15件で捕まらなかったことで、ワはそれが正しいと思ったんずや。ワはワ自身ば検察官と陪審員に任命したんずや。いやそれ以上だ。ワは神だんずやんだ。」
今日においてまで
犯罪心理学者が彼と面談し
彼の行動の軌跡を追っているけれど
何が彼の殺人衝動を実践させたのか答えが得られていない
周りの人間の苦しみを見ることに耐えられなかったのか
或いは
単に犠牲者が死ぬのを見て楽しんだのか…
ともかく
ドナルド・ハーヴェイの最初の保釈審問は2047年となる
この時
ハーヴェイは95才になっているはずだった
ただし彼はそれを待つことなく
2017年3月30日
同房の囚人に殴られ
脳挫傷で死亡する
64才だった
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